ソシオニクスの15の二分法 · 第3軸(基本の4軸)
論理/倫理
判定ルール: 自我(第1・第2)の判断要素が論理(Te・Ti)か倫理(Fe・Fi)か
論理/倫理は、ソシオニクスにある15の二分法のうち3番目の軸です。16タイプを8タイプずつに分けます。
論理の側は事実・仕組み・効率を物差しに判断し、人を「何をしたか」で見るとされます。
倫理の側は人の気持ち・関係・価値を物差しに判断し、人を「なぜしたか」で見るとされます。
感情があるかないかの軸ではなく、判断の物差しがどちらの現実に置かれているかの軸です。ユング由来の基本4軸のひとつで、後年の統計検証では職業選択との結びつきが15軸中で最も強い軸でした。この記事では、ユング(Carl Gustav Jung)の原典と、ソシオニクスの創始者アウシュラ(Aushra Augustinaviciute)、レイニン(Grigory Reinin)、フィラトワ(Ekaterina Filatova)の記述、統計的な検証研究を引用しながら、両極が何で分かれ、どう違って見え、どう見分けるのかを解説します。
01何で決まるか
まず、ソシオニクスでの判定はタイプのモデルA(8つの情報要素の配置図)から機械的に決まります。判定に使うのは、自我ブロックにある判断要素がどちらかです。
- 自我の判断要素が論理(Te・Ti) → 論理(ILE・LII・LSI・SLE・LIE・ILI・LSE・SLI)
- 自我の判断要素が倫理(Fe・Fi) → 倫理(ESE・SEI・EIE・IEI・SEE・ESI・IEE・EII)
この軸は基本4軸のひとつとして、レイニンの15軸すべての素材になります。互いを補い合うとされる双対関係は必ず反対の極に分かれます。8組の双対ペアは、すべて論理と倫理の組み合わせです。ILE(論理)の双対はSEI(倫理)、LSI(論理)の双対はEIE(倫理)です。
02レイニンはどう定義したか
レイニンは1980年代に、ユング由来の4つの基本二分法を掛け合わせると16タイプを8対8に割る二分法が全部で15本作れることを示しました。この軸は、その素材になる基本4軸の1本です。レイニンは2005年の著書(英訳2010年)で、こう記述しています。
この特性もまたユングの基本的特性の1つである(思考―感情)。ソシオンには8つの論理タイプと8つの倫理タイプがある。論理タイプは理解と説明に頼る人々であり、一方、倫理タイプは関係性と感情を信頼して人生を導かれる人々であり、その人生は感情によって支配されている。(中略)これは、選択の問題を解決する方法による人々の区別であると言ってよい。一部の人は感情に基づいて選択をする。他者の選択は知識と論理に基づく。
選択のたびに引かれる物差しが、知識と説明の側にあるか、関係と感情の側にあるか—短い定義ですが、「どちらを信頼するか」という言い方が肝心です。どちらの側も、もう一方の物差しを持っていないわけではなく、頼る順番が違います。この「信頼の順番」という見方は、「感情の有無ではない」という注意にもつながります。
03アウシュラはどう記述したか
創始者アウシュラは1998年の連載で、この軸に大きな概念の言い換えを持ち込みました。従来の「論理的/倫理的」という呼び名を、外因的/内因的に改めようという提案です。
しかしこれらタイプの思考をより客観化していくと、論理的タイプは外因的な過程・関係を扱い、倫理的タイプは劣らず客観的な内因的な過程・関係を扱うことが分かるので、前者を外因的、後者を内因的と呼ぶことができる。(中略)前者は外因的な過程を研究し、それを外的状況で説明する。後者は内因的な過程を研究し、それを内的状況、欲動、必要、引力で説明する。
ここでの主張は明確です。倫理の側が扱う「人の内側で起きていること」は、論理の側が扱う外的な事実に劣らず客観的な現実だ—感情は主観の霧ではなく、研究と操作の対象になる実在だ、という位置づけです。アウシュラは「内因的な現実は、外因的な現実に劣らず客観的である」と繰り返しています。この呼び名自体はその後も広まりませんでしたが、「倫理の側はもうひとつの客観的現実の担当だ」という視点は、この軸を語るときの彼女の記述すべての土台になっています。この対等の視点から、職場の一場面が説明されます。
ある観察によれば、倫理的タイプは職場でのスキャンダルがあると働けず、論理的タイプは働ける。なぜか?なぜなら論理的タイプは周囲の感情の嵐の中で何も理解できず、意味を見ないからである。彼にとっての意味は仕事にある。(中略)スキャンダルやいざこざは—自然災害のようなものである。
感情の嵐が「読める情報」である側は、その場に意味を見いだして関与し(アウシュラによれば、権威を示す機会にも、人々を動かすものを学ぶ機会にもなり)、読めない側には天災と同じで、やり過ごすしかない—という対比です。感情の場から情報を受け取れるのは倫理の側だけです。論理の側は人々の応答的な反応が読めないため、そこから学ぶことができない、とまで書かれています。もうひとつ、社会的な帰結の観察があります。
自分の近しい者についても自分自身についても宣伝(広告)ができるのは、倫理タイプのみである。(中略)それゆえ論理的タイプは、単独で活動すれば奇跡を起こせるが、誰もそれを早く知ることはない。論理タイプのダーウィンの偉業について、倫理タイプのハクスリーが応援に来なかったら、誰がこれほど早く知ることができただろうか?
宣伝とは感情と好感への働きかけであり、それができるのは倫理の側です。進化論のダーウィンと、その擁護者ハクスリーの組み合わせを、アウシュラは両極の分業の見本にしています(クルチャトフとヨッフェの対も同じ例として挙がっています)。なお、引用中の訳語(外因的/内因的、倫理タイプ/論理タイプ)は、原文のexogenic/endogenicを本記事の表記に揃えたものです。
04ユングまで遡る
この軸の土台は、ユングが『心理学的類型』(1921年)で立てた2つの判断機能—思考と感情—の対です。なお、ユングの引用は英訳からの日本語訳です。
思考とは、それ自身の法則に従って、与えられた表象を概念的な連関へもたらす心理機能である。それは統覚的な活動であり、能動的な思考活動と受動的な思考活動とに区別されねばならない。
感情とは、自我と所与の内容とのあいだで起こる過程であり、その内容に、受容か拒絶か(「好き」か「嫌い」か)という意味での特定の価値を与える過程である。(中略)気分もまた、全体的であれ部分的であれ、価値づけを意味する。
見落とされがちですが、ユングの定義では感情も「価値づけ」を行う判断機能です。思考が概念のつながりで判断し、感情が受容/拒絶の価値で判断する—どちらも判断であって、感情は判断の欠如ではありません。ユングはこの2つを、次の記事で扱う「合理的機能」の対として整理しました。ソシオニクスはこの対を外向と内向に分け、Te・Ti・Fe・Fiの4要素—そして「倫理」という呼び名—で引き継ぎました。感情(エモーション)という語を避けて倫理と呼ぶのは、扱う対象が一時の情動ではなく、人と人の関係と価値の全体だからです。ユングの「感情も価値づけの判断だ」という整理は、その呼び替えの根拠にもなっています。
05行動は何が違うか
では、日常の行動としては何が違って見えるのでしょうか。後年の研究者フィラトワは、4つの判断要素を主導に持つタイプの描写で、この軸の両極に生活の手触りを与えています。論理の側から、Tiが主導の人の描写です。
内向論理型の意識は、周囲世界についての自分自身の観念に集中している。彼は自分を取り囲むすべてのものの中に構造と秩序を探し、自分の周りにそうした構造を組織し、その中での自分の位置を感じ取ろうとする。(中略)あらゆる情報を分類し、グラフや図式を作る傾向がある。
Te主導はこう描かれます。
外向タイプの論理型は、主要な注意を周囲世界の物質的な対象に向ける。彼が興味を持つのは生産の過程、テクノロジー、工業製品や農業生産物の利用の効率である。(中略)自分の行動においてはもっぱら事実に依拠し、事実を真理の根本的な基準と考える。
体系と構造のTi、事実と効率のTe。内向と外向で向きは違っても、どちらも人の気持ちの外にある現実を物差しにする点で論理の側です。倫理の側はこうです。
これは概して、開かれた感情の人であり、感情を容易に表現する。外向倫理型にとって決定的なのは、感情、気分、情動体験の領域である。自分自身が非常に情動的な人間であるだけに、他の人々の感情もみごとに理解し、必要なら操ることもできる。
彼らにとって第一に来るのは、モラル、道徳性、良心、公正、伝統の遵守といった概念—要するに、人類が何世紀もの歴史の中で練り上げてきた交わりの規則の総体である。内向性はこの人の情動性を内側へ向ける。だから彼は非常に抑制的に振る舞い、内側では文字どおり「煮えたぎって」いるかもしれない感情を、外には表さないことがある。
感情を外へ動かすFeと、関係と道徳を内に保つFi。振る舞いは対照的でも、どちらも人間の側の現実を物差しにしています。とりわけFi主導の描写は、倫理の側が必ずしも感情表現の豊かな人ではないことを示しています。ここまでの記述を、日常の対比に落とすとこうなります。
- 判断の第一言語。論理の側は「正しいか、効率的か、筋が通るか」で語り、倫理の側は「誰がどう感じるか、関係がどうなるか、それは善いことか」で語る。
- 人の評価。論理の側は行為と結果(何をしたか)から人を測る。倫理の側は動機と関係(なぜしたか、誰に対してか)から人を測る。
- 感情情報の解像度。倫理の側は場の感情の流れ、人と人の好悪、隠れた動機をよく読み取り、働きかけられる。論理の側はそこが読みにくく、感情の場面では手持ちの手段(距離を取る、事実を示す)で応じることになる。
- 不和への対処。論理の側は距離と行為で解決する—自分が離れるか、相手を遠ざける。倫理の側は相手を研究し、どう働きかければ好感が現れるかを探す。
- 得意な説明。論理の側は仕組みと因果の説明が滑らかで、感情の言語化に手間取る。倫理の側は気持ちと関係の言語化が滑らかである。
アウシュラはさらに、立ち直りの回路も対になっていると書いています。
仕事における誤りが論理的タイプに新しい探求への意欲を与えるように、感情的場面における一時的な敗北は倫理的タイプを奮起させる。逆のものは両者を道徳的に押し潰す。
仕事の誤りは論理の側に次の探求への意欲を与え、感情の場での敗北は倫理の側を奮起させる。しかし取り違えると—仕事の失敗を突きつけられた倫理の側、感情の場でやり込められた論理の側—どちらも立ち直れない、という警告です。叱る場面や励ます場面では、この向きを間違えないことが重要です。
06相手からどう見えるか
二分法では、反対側の極が「欠点を持った自分」に見えることがあります。この軸は、日常の人間関係で摩擦の種になりやすい軸です。
倫理の側から論理の側を見ると、気持ちを無視して正論を通す、冷たい人に見えることがあります。論理の側から倫理の側を見ると、事実の議論に感情を持ち込み、筋より空気を優先する人に見えることがあります。「正論だけれど、言い方があるだろう」と「言い方の問題にすり替えないでくれ」—日常の定番の応酬は、そのままこの軸の言葉です。アウシュラの枠組みで見れば、どちらも自分に読める現実で判断しているだけです。論理の側の「冷たさ」は感情情報の解像度の低さであって悪意ではなく、倫理の側の「感情的」は内因的な現実を読んでいる状態であって非合理ではありません。
すれ違いの質について、アウシュラは鋭い観察を残しています。
論理タイプは、倫理的タイプは互いに永遠に喧嘩しており、互いに執着し、嘲笑し、皮肉を言う、要するに彼らの間にはいかなる平和もありえないと確信している。倫理タイプはそのような自分たちの関係に何も常軌を逸したものを見ない。それどころか、その逆だ。論理的タイプが互いに沈黙している—共通の話題を見つけられないので—こちらの方が恐ろしい。沈黙が恐ろしい。なぜならそれはいかなる情報ももたらさないからである。
倫理の側の賑やかな衝突は、論理の側には「永遠の喧嘩」に見えます。論理の側の静かな並走は、倫理の側には「不気味な沈黙」に見えます。どちらの側も、相手の平常運転を異常事態として読む、対称的な誤読です。アウシュラの観察では、倫理の側は気分を害することまで働きかけの手段として使えるのに対し、論理の側が声を荒げるのは関係を動かす道具ではなく、「離れさせるため」の防御にとどまるとされます。同じ怒りの表出でも、片方は相手を動かす手段、片方は距離を取るための防御です。防御を働きかけと誤読すると、「怒って圧をかけてきた」という取り違えが起きます。なお、この軸は双対ペアが必ず反対の極に分かれる軸です。ダーウィンとハクスリーの例のように、作る側と広める側、仕組みを整える側と関係を整える側という分業が、相性論の基本形に組み込まれています。
07見分け方と実証研究
見分けるには何を手がかりにすればよいでしょうか。実用的な観察点は4つあります。
第一にもめごとの語り方。人間関係のトラブルを話してもらうと、論理の側は出来事と行為の系列で語り(感情の描写が薄い)、倫理の側は誰がどう感じ、関係がどう動いたか、その裏に何があったかで語ります。第二に頼みごとの形。人を動かすとき、論理の側は理由と損得を並べて相手の判断に委ね、倫理の側は気持ちと関係に直接働きかけます。第三に褒め方と怒り方。成果を褒めるか、人柄を褒めるか。仕組みの欠陥に怒るか、不義理に怒るか。第四に沈黙への反応。二人で黙って作業する時間を、心地よい並走と感じるか、情報のない不穏と感じるか—05のアウシュラの観察に対応します。加えて、この軸は職業選択との統計が最も太い軸なので、どんな仕事を面白いと感じるかの話題にも物差しが出ます。
この軸は、統計的な裏づけが最も強い側の軸です。心理学者タラノフ(Viktor Talanov)は2003年、合計1,800人超の大規模標本で、基本4軸とレイニンの派生11軸をまとめて検定しました。
外向・合理性・論理・直観の二分法については、職業選択との絶対的に信頼できる統計的関連が観察される。レイニン特徴については帰無仮説—関連の不在—が裏づけられる。
論理/倫理は、職業選択(1,446人)との結びつきが検定した15軸の中で最も強い軸でした。どんな仕事を選ぶかに最も太く効く軸だ、ということです。質問紙240問との相関も、下の図のとおり派生11軸とは桁が違います。
タラノフの実験(2003年・447人)。点線(0.91)を下回る値は、偶然のばらつきと区別できない。
数値はタラノフ「レイニン特徴の実験的研究」(2003年、ソシオニクス新聞 №07-08)表3より
340問版の検定では、相関二乗和が13.68に上がり、外向/内向(14.31)に迫る2番目の強さでした。447人へのホランド職業指向質問紙を使った別の検定でも5.39で、閾値0.91を大きく超えています。340問版では外向/内向と並ぶ二本柱、240問版では3番目、職業選択では単独の首位—測り方によって順位は動きますが、常に最上位グループに入る軸です。
観察研究の側でも、この軸は判定の土台の1本です。サンクトペテルブルクの検証グループの観察実験は、ソシオタイプの判定で専門家の意見が割れない被験者を選ぶところから始まっており、その判定は基本4軸の合意の上に立っています。
つまり現状はこう整理できます。論理/倫理は統計の裏づけが最上位の基本軸です。判別では、感情の有無や知能との混同に注意が要ります。ちなみにアウシュラは、タイプ論そのものの使い方までこの軸で分かれると書いています—論理の側は不快な相手から距離を取るための防御の道具として、倫理の側は衝突を避けてうまく働きかけるための作用の道具として。この記事の読まれ方にも、両極が出ることになります。
08使うときの注意
最後に、この軸を使うときの注意をまとめます。
感情の有無の軸として読まないこと。論理の側にも感情はあり、倫理の側にも論理はあります。ユングの定義では感情も判断機能であり、アウシュラは倫理の側が扱う内因的現実を「劣らず客観的」と位置づけました。Fi主導の描写のとおり、倫理の側が感情表現の豊かな人とも限りません。分かれるのは、判断の第一の物差しがどちらに置かれているかです。
頭の良さの軸として読まないこと。論理/倫理は知能の軸ではありません。関係と動機を読み解く知性と、仕組みと因果を読み解く知性は、対等な二つの知性です。「論理的な人=賢い」という日常の語感を持ち込むと、この軸は優劣の軸に化けてしまいます。
この軸単独でタイプを決めないこと。論理/倫理が分かっても、候補は8タイプ残ります。統計的に最も太い軸だからこそ、ここで判定を止めたくなりますが、残る基本軸と合わせて絞り、派生軸で答え合わせをしてください。
09両極のタイプ一覧
両極の8タイプずつを一覧で再掲します。自分のタイプがどちらの束に入っているかを見たうえで、判断の第一言語ともめごとの語り方に心当たりがあるかを確かめてみてください。摩擦の種になりやすい軸であるぶん、仕組みを知ったときに楽になる幅も大きい軸です。合わないと感じたら、それはタイプ判定そのものを見直す手がかりにもなります。二分法は、判定の答え合わせにも使えるからです。
引用索引
本文で引用した出典を、登場した順にまとめます。引用の日本語は原文から訳出したものです。
- [1]グリゴリー・レイニン『Socionics: Typology. Small Groups.』(2010)第III部 本文へ
- [2]アウシュラ・アウグスティナヴィチューテ「レイニン特性理論」『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 第3部(№3)(1998年) 本文へ
- [3]アウシュラ・アウグスティナヴィチューテ「レイニン特性理論」『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 第3部(№3)(1998年) 本文へ
- [4]アウシュラ・アウグスティナヴィチューテ「レイニン特性理論」『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 第3部(№3)(1998年) 本文へ
- [5]カール・グスタフ・ユング『心理学的類型』(1921) 引用は英訳(Baynes訳)からの重訳 本文へ
- [6]カール・グスタフ・ユング『心理学的類型』(1921) 引用は英訳(Baynes訳)からの重訳 本文へ
- [7]エカテリーナ・フィラトワ『ソシオニクスの鏡の中の人格』(2001)第II部 本文へ
- [8]エカテリーナ・フィラトワ『ソシオニクスの鏡の中の人格』(2001)第II部 本文へ
- [9]エカテリーナ・フィラトワ『ソシオニクスの鏡の中の人格』(2001)第II部 本文へ
- [10]エカテリーナ・フィラトワ『ソシオニクスの鏡の中の人格』(2001)第II部 本文へ
- [11]アウシュラ・アウグスティナヴィチューテ「レイニン特性理論」『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 第3部(№3)(1998年) 本文へ
- [12]アウシュラ・アウグスティナヴィチューテ「レイニン特性理論」『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 第3部(№3)(1998年) 本文へ
- [13]ヴィクトル・タラノフ「レイニン特徴の実験的研究」『ソシオニクス新聞』誌 №07-08(2003年) 本文へ
