主観主義・客観主義を言語学的見地から考えてみた!
主観主義/客観主義は、レイニン特性の1つで、16タイプを8タイプずつに分ける二分法です。この記事では、言語学の段階形容詞と、定義の種類という2つの見方から、この二分法についての原典と検証研究の記述を読み直します。
段階形容詞とは、「高い」「まっすぐ」のように程度を表す形容詞のことです。そのうち「高い」のような語は、どこからそう言えるかの境目が、話の文脈で決まります。一方、ソシオニクスの検証研究には、用語の扱い方についての観察の記録があります。主観主義の側は用語を「こう呼ぶことに決めた」ものとして扱い、客観主義の側は用語に1つの正しい意味があるものとして扱う、という観察が記録されています。
言語学の見方とこの記録を重ねると、2つの側の違いは、境目を言うかどうかより、境目を誰のものとして扱うかにあるのかもしれません。この記事は、この仮説で何が説明できそうかを探る実験的な読み方で、研究で確かめられた説ではありません。
01主観主義/客観主義は、口頭ブロックで分かれる
口頭ブロックに入る
主観主義の側はTi(内向論理)とFe(外向倫理)に、客観主義の側はTe(外向論理)とFi(内向倫理)に、それぞれ価値を置きます。
この分かれ方を、ソシオニクスの創始者アウシュラは、レイニン特性の連載(1998年)の最終回で、口頭ブロックという考え方から説明しています。アウシュラは、モデルAの4つのブロックを、口頭ブロック(自我・超イド)と非口頭ブロック(超自我・イド)に分け、2つの違いをこう書いています。
口頭ブロックの主要な特徴は、それらが反映するアスペクトに関するすべてについて多く語られ、何にも当惑させられないことである。あらゆる論争、議論、攻撃が可能。これらすべては知的なゲーム─議論の水準、または理解しない者への助けの水準で。しかしこれらブロックは個別に実現される—すなわち、証人なしで、特に批判的な証人なしが望ましい。
非口頭ブロックは集団的活動のブロックで、会話と冗談には注意が必要。自分のコメントなしで、客観的情報の伝達のみが許される—見たり聞いたりできたこと。
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Основная черта вербальных есть то, что обо всем, что касается отражаемых ими аспектов, много говорится и ничто не смущает. Возможны любые споры, дискуссии, нападки. Все это на уровне интеллектуальной игры-дискуссии или — помощи непонимающим. А вот реализуются эти блоки индивидуально, то есть — чаще всего желательно без свидетелей, особенно — критически настроенных свидетелей. Невербальные блоки — блоки коллективной активности, вот с разговорами и шутками здесь — осторожно. Допускается лишь передача объективной информации, того, что удалось видеть или слышать без собственных комментариев.
言い換えると、口頭ブロックの要素にかかわる話題は、人前で自由に議論されるということです。反対に、非口頭ブロックの要素にかかわる話題は、話し合うより先に、みんなで一緒に実行されるとされています。言葉にするときも、見聞きしたことを自分の意見を付けずに伝えるだけです。
主観主義/客観主義を分けるのは、判断の要素(論理と倫理)が、このどちらのブロックに入るかです。アウシュラは、旧称で陽気と呼ばれた主観主義の側は口頭ブロックにTiとFeを、深刻と呼ばれた客観主義の側はTeとFiを持つと書いています。例えば、ILEは自我にNeとTi、超イドにSiとFeを持つので、口頭ブロックの判断の要素はTiとFeです。
この二分法を数学的に導いたレイニンは、2つの側の違いを、こう定義しています。
区別は現実に対する態度に従ってなされた。主観主義者は理解、説明、記述、概念により多く頼る。新しい課題が現れたときには、彼らは知識を拡張し、自身の立場を決定しようとする。彼らは「陽気な集まり」とラベル付けされうる。客観主義者は客観的世界、事実、権威、信頼できるデータにより集中している。彼らの代替的な名称は「深刻」である。
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The Subjectivists – the objectivists. Distinction was made according to the attitude to the reality. The subjectivists lean more on understanding, explanations, descriptions, and concepts. When a new task presents itself they try to extend their knowledge and determine their position. They may be labeled as the cheerful bunch. The objectivists are more focused on the objective world, facts, authorities, and reliable data. The alternative name for them is serious.
つまり、主観主義の側は自分の理解や説明を、客観主義の側は事実や信頼できるデータを頼りにするということです。名前の由来と、2つの側の振る舞いの違いについては、主観主義/客観主義の解説のページで詳しく説明しています。
02検証グループは、用語の扱い方の違いを記録した
| 主観主義 | 客観主義 |
|---|---|
| 意味は人による | 意味は1つ |
| 「こう呼ぶと決めた」 | 「こう呼ばれている」 |
| 「私はこう考える」 | 「本当はこうだ」 |
| 条件を分けて言う | 例を多く挙げる |
検証グループの報告にある、言葉の使い方の違いです。※表の言葉は、報告の記述を短く言い直したものです。
この報告は、2003年にサンクトペテルブルクのソシオニクス作業グループがまとめたものです。専門家の判定でタイプに異論が出なかった人を、特性ごとに2つの側に分け、同じ中立的な話題について順に話してもらいました。そのうえで、使う語、品詞の偏り、文の組み立て方など、話し方の違いを記録しています。協力者は全体で約100人、1つの特性につき20人以上です。
主観主義の側は、呼び方を約束として扱う
報告は、主観主義の側が用語をどう扱うかを、こう書いています。
「考え方のすり合わせ」は主観主義者に共通して見られ、やり方だけでなく、概念や用語などにも及ぶ。主観主義者は、同じ言葉、同じ用語でも、人によって違うものを指していることがあると考える傾向が強い。用語を(人の行動と同じように)主観的な考え方の一部として、個人の見方、立場、意図などと切り離さずに受け取る。「これをこう呼ぶことに、私たちは決めた」。用語を「客観的」なものとして受け取る客観主義者と違い、主観主義者は用語の違いが分かっていて(定着した用語であっても)、概念を照らし合わせようとする(「あなたはそう言うが、私はこうだと(こうではないと)考える」)。
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"Сверка концепций" - общее явление для субъективистов, оно касается не только способов действий, но и понятий, терминологии и т. д. Субъективисты в большей степени настроены на то, что под одним и тем же словом, термином разные люди могут понимать разные вещи. Воспринимают терминологию (как и действия людей), как часть субъективной концепции - неотрывно от личного взгляда, занимаемой позиции, намерений и т. д.: "Мы договорились, что мы это называем так". В отличие от объективистов, которые воспринимают терминологию как "объективную", субъективисты понимают разницу терминологий (это может касаться даже устоявшихся терминов) и стремятся сверить понятия ("Это вы так говорите, а я считаю, что это так (не так)").
言い換えると、主観主義の側は同じ言葉でも人によって指すものが違うと考え、呼び方を話す人どうしで決めた約束として扱うということです。定着した用語でも、相手と自分で意味がずれていないかを確かめにいきます。報告は、このやり方を考え方のすり合わせと呼んでいます。
同じ報告は、どのやり方がいちばんよいかを話すときの言い方も記録しています。
最適さを語るときは、自分の考え方の枠組み、主観的な取り組み方の中での最適さを指している(どの観点から見てより最適なのか、何に対してなのか)。そのため、相手の見方を自分の見方と照らし合わせ、自分の立場を説明しようとする(考え方のすり合わせ)。「これを指しているならこうする。別のものを指しているなら、別のやり方にする」。
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Говорят об оптимальности, имея в виду оптимальность в рамках своей концепции, субъективного подхода (с какой точки зрения более оптимально, по отношению к чему). Поэтому стремятся сверить чужой взгляд со своим и объяснить собственную позицию (сверить концепции): "Если имеется в виду это, то делаем так, а если что-то другое - по-другому".
つまり、主観主義の側は「いちばんよい」の基準を1つに決めず、何を指しているかで場合を分けて、それぞれの答えを並べるということです。
客観主義の側は、決まった呼び方を使う
客観主義の側の用語の扱いについては、報告はこう書いています。
主観主義者と違い、「考え方のすり合わせ」に向かわない。客観主義者は、定着した用語や概念には、ただ1つの解釈(「正しい」「確かな」解釈)しかないと考えている。ほかの人が別の考え方の中でそれを違うように受け取るかもしれないとは、考えないことも多い。そうした概念を「客観的に与えられたもの」、意味が1つに決まった事実として扱い、ここで「考え方をすり合わせる」ことはしない。「これはこう呼ばれている」。そのうえで、どうするのが正しいか、「本当は」どうなのかを知っていると考えている(ある1つの「世界の見方」だけを正しいと考えている)。「あなたはそう言うが、本当はこうだ(こうではない)」。
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В отличие от субъективистов, не настроены на "сверку концепций". Объективисты полагают, что устоявшиеся термины, понятия имеют единственно возможное толкование ("правильное", "верное") - зачастую не задумываются о том, что другой человек может воспринимать их иначе, в рамках другой концепции. Оперируют такими понятиями как "объективной данностью", как однозначными фактами, не стремясь в этом случае "сверять концепции": "Это называется так". Считают при этом, что знают, как правильно, как есть "на самом деле" (считают определенную "картину мира" единственно верной): "Это вы так говорите, но на самом деле это так (не так)".
言い換えると、客観主義の側は、定着した用語には1つの正しい意味があり、相手も同じ意味で使っているものとして扱うことが多いということです。意見が違うときは、考え方をすり合わせるより先に、相手が「どうするのが正しいか」を知っているかどうかを確かめにいくとされています。
説明のしかたについても、報告は客観主義の側の特徴を挙げています。
自分の行動を説明したり、共同の作業を話し合ったりするときは、「説明する」言葉の代わりに、たくさんの例を挙げる(「正しい」行動も「正しくない」行動も、すべて例で描く)。
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При описании своих действий или обсуждении совместной деятельности вместо "объяснительной" лексики приводят массу примеров (все "верные" и "неверные" действия описывают на примерах).
つまり、客観主義の側は、基準を言葉で説明する代わりに、正しい例と正しくない例を並べて示すということです。
報告は、論理/倫理の二分法がこの特性の表れ方を強める、という仮説も書いています。倫理型では主観主義(陽気)の表れが、論理型では客観主義(深刻)の表れが強くなるという仮説です。この仮説は、最後の章で使います。
03「高い」の境目は、話の文脈で決まる
真ん中は、
境目は、
「高い」の境目は
ここからは言語学の話です。言語学では、「高い」「背が高い」のように程度の大きさを表す形容詞を、段階形容詞と呼びます。「とても高い」「もっと高い」のように、程度を強めたり比べたりできる形容詞のことです。
アメリカの言語学者ケネディ(Christopher Kennedy)は、2007年の論文で、「高い」のような語があいまいになる理由を論じています。ケネディは、あいまいな語の特徴を3つ挙げています。
1つ目は、同じ文でも、話の文脈によって正しいか正しくないかが変わることです。例えば「ローマのコーヒーは高い」は、イタリアの都市どうしの物価を比べる話なら正しい文です。ですが、ローマとシカゴを比べる話なら、同じ文が、今度は正しくない文になります。
2つ目は、当てはまるとも当てはまらないとも言いにくい境界事例があることです。ケネディは、コーヒー豆の例を挙げています。1ポンド1.50ドルの豆は明らかに高くなく、20ドルの豆は明らかに高い。では9.25ドルの豆はどうか。自然な答えは「よく分からない」で、これが境界事例だと書いています。
3つ目は、砂山のパラドックスが起きることです。「5ドルのコーヒーは高い」と「高いコーヒーより1セント安いコーヒーも高い」の2つを認めると、無料のコーヒーまで高いことになってしまいます。ケネディは、2つ目の前提のどこが誤りなのかを突き止めるのが難しいと書いています。
では、「高い」の境目はどこで決まるのでしょうか。ケネディは、言語学で広く受け入れられている考え方を、こう説明しています。
例えば、この見方では、expensive(値段が高い)は、値段についてのある比較の基準と少なくとも同じだけの値段の程度を持つ、という性質を表す。その基準の値は expensive という語の意味の一部ではなく、むしろ「その場で」決まる。
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For example, expensive on this view denotes the property of having a degree of cost that is at least as great as some standard of comparison of cost, where the value of the standard is not part of the lexical meaning of expensive, but is rather determined ‘on the fly’.
言い換えると、「高い」という語は、境目の値を意味の中に持っておらず、境目はその場の話の文脈で決まるということです。ローマのコーヒーの文が、比べる相手によって正しくも正しくなくもなるのは、このためだと説明されます。
ですが、程度を表す形容詞のすべてが、このようにあいまいなわけではありません。ケネディは、2つの種類を区別しています。
特に、ほとんどの分析は、上に述べたあいまいさの特徴を持つ expensive のような相対的な段階形容詞と、それを持たない straight や bent のような絶対的な段階形容詞との区別を扱っていない。詳しく示すとおり、straight のような述語(The rod is straight「その棒はまっすぐだ」のように使う)は、主語が、測られる概念の最大の程度を持つことを求める。bent のような述語(The rod is bent「その棒は曲がっている」)は、主語がその概念の0でない程度を持つことだけを求める。どちらの述語も、文脈に依存する比較の基準との関係を表すものではない。
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In particular, most analyses fail to address the distinction between RELATIVE gradable adjectives like expensive, which have the features of vagueness described above, and ABSOLUTE gradable adjectives like straight and bent, which do not. As I will show in detail, predicates like straight (as in The rod is straight) require their arguments to possess a maximal degree of the measured concept, and those like bent (as in The rod is bent) merely require their arguments to possess a non-zero degree of the relevant concept; neither describes a relation to a context dependent standard of comparison.
つまり、「まっすぐ」は少しも曲がっていないこと、「曲がっている」は少しでも曲がっていることで、どちらも境目は尺度の端に決まっているということです。ケネディは、こちらを絶対的な段階形容詞、「高い」のような語を相対的な段階形容詞と呼んでいます。
ケネディと言語学者マクナリー(Louise McNally)は、2005年の論文(学術誌 Language 81巻)で、この違いを形容詞が使う尺度の形と結びつけています。値段や背の高さのように端のない尺度を使う形容詞は、境目を文脈から決めるしかありません。一方、満ちている・空のように端のある尺度を使う形容詞は、端を境目にできるので、文脈に頼らずに正しいかどうかが決まりやすいとされています。英語では、「100%」や「完全に」を付けられるかどうかで見分けられるとされています。例えば、100% full(100%満ちている)は言えますが、completely tall(完全に背が高い)は不自然です。
04意味を約束する定義と、使われ方に合わせる定義
- すること
- 意味を決める
- 例
- 「この論文では、
〜を〜と呼ぶ」 - 使われ方とずれたら
- 反論にならない
- すること
- 意味を言い当てる
- 例
- 「知っている」
「自由な」の定義 - 使われ方とずれたら
- 反論になる
定義が正しいかを
もう1つの見方は、定義の種類です。スタンフォード哲学百科事典の項目「定義」(哲学者のグプタとマッケレスが執筆)は、まず規約的定義を、こう説明しています。
規約的定義は、定義される語に意味を与えるもので、与えた意味がその語のそれまでの使われ方(あれば)と合うことを、何も約束しない。
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A stipulative definition imparts a meaning to the defined term, and involves no commitment that the assigned meaning agrees with prior uses (if any) of the term.
言い換えると、規約的定義は語の意味を新しく決める定義で、それまでの使われ方と合わなくてもかまわないということです。例えば、論文の冒頭で「この論文では、〜を〜と呼ぶ」と決めるのが、この形の定義です。
これに対して、同じ項目は、記述的定義をこう説明しています。
記述的定義は、規約的定義と同じように意味をはっきり述べるが、それに加えて、すでにある使われ方に合うことも目指す。哲学者が例えば「知っている」や「自由な」の定義を出すとき、それは規約的定義ではない。すでにある使われ方に合わないことは、その定義に対する反論になる。
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Descriptive definitions, like stipulative ones, spell out meaning, but they also aim to be adequate to existing usage. When philosophers offer definitions of, e.g., ‘know’ and ‘free’, they are not being stipulative: a lack of fit with existing usage is an objection to them.
つまり、記述的定義はすでにある語の使われ方を正しく言い当てることを目指す定義で、使われ方と合わなければ誤りになるということです。同じ項目は、辞書の定義も、語の意味を説明するものとして別に挙げています。
2つの違いは、定義が正しいかどうかを決めるのが、定義した人の約束か、その言葉を使う人たちの使われ方かにあります。
05違いは、境目を誰のものとして扱うかにあるのか
| 報告の記述 | 重なる言語学の見方 |
|---|---|
| 「こう呼ぶと決めた」 | 規約的定義 |
| 「こう呼ばれている」 | 記述的定義 |
| 条件を分けて言う | 境目を言葉にする |
| 例をたくさん挙げる | 両側の明らかな例で示す |
検証グループの記述と、それに重なる言語学の見方の対応です。※対応づけは当サイトの読みです。
ここからは、当サイトの読みです。まず、報告の記述と言語学の2つの見方は、どれも「語の意味を、誰が決めるか」にかかわっている点で重なっていると言えそうです。
主観主義の側の「これをこう呼ぶことに、私たちは決めた」は、規約的定義の形に近いと考えられます。話す人どうしの約束で意味を与え、ほかの人の使い方と合うことを前提にしていないからです。「これを指しているならこうする」という言い方も、相対的な語の境目を、話の中で言葉にしている形と読めます。
一方、客観主義の側の「これはこう呼ばれている」は、記述的定義の前提に近いと考えることもできます。語の意味はすでに使われ方の中にあり、それを正しく使えているかが問われるからです。この前提に立つなら、境目は自分が決めるものではなく、言葉を使う人たちが共有しているものになります。そのため、「高い」のような語も、境目を言わずに使える可能性があります。
例をたくさん挙げる説明も、この読みと結びつきそうです。ケネディの境界事例の話では、明らかに当てはまる例と、明らかに当てはまらない例のあいだに、決めにくい例がありました。正しい例と正しくない例を並べるのは、境目を数値や条件で言う代わりに、境目の両側の明らかな例で示すやり方と読むこともできます。
そうだとすると、2つの側の違いは境目を言うか言わないかより、境目を自分たちの約束として扱うか、言葉の中にもともとあるものとして扱うかにあるのかもしれません。客観主義の側も、求められれば例で境目を示します。主観主義の側も、「高い」のような語を使わないわけではありません。
意見が分かれたときの言い方も、この読みと矛盾しません。主観主義の側の「私はこう考える」は、境目の違いを見方の違いとして扱う言い方です。客観主義の側の「本当はこうだ」は、境目にも正しい位置があるものとして扱う言い方です。
06境目の持ち主は、論理と倫理で入れ替わるのか
黒い箱は、
境目を自分の側に
では、この違いはどこから来るのでしょうか。手がかりになりそうなのは、2つの側が価値を置く判断の要素の組み合わせです。主観主義はTiとFe、客観主義はTeとFiで、どちらの側も、内向の判断の要素と外向の判断の要素を1つずつ持っています。
論理の要素: Tiは自分の側、Teは客観的な条件
ユングは、ソシオニクスのTiの元になった内向的思考を、こう書いています。
内向的思考は、主として主観的な要因によって方向づけられる。(中略)したがってそれは、具体的な経験からふたたび客観的な事物へと導くのではなく、つねに主観的な内容へと向かう。外的な事実は、この思考の目的でも起点でもない。内向型はしばしば、そう見えるようにしたがるけれども。それは主体に始まり、主体に戻る。現実的なもの、事実的なものの領域へ、どれほど大きく飛翔しようとも。
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Introverted thinking is primarily orientated by the subjective factor.〔中略〕Hence, it does not lead from concrete experience back again into objective things, but always to the subjective content. External facts are not the aim and origin of this thinking, although the introvert would often like to make it so appear. It begins in the subject, and returns to the subject, although it may undertake the widest flights into the territory of the real and the actual.
言い換えると、内向的思考では、判断の基準が外の事実ではなく、考える人自身の側に置かれるということです。
一方、ソシオニクスのTeの元になったのは、ユングの外向的思考です。ユングは、その判断の基準をこう書いています。
思考一般は、2つの源泉から養われる。第一に、主観的な、突き詰めれば無意識的な根から。第二に、感覚知覚を通じて伝えられる客観的データから。外向的思考は、前者よりも後者の要因によって、より大きく条件づけられる。判断はつねに基準を前提とする。外向的な判断にとって、有効で決定的な基準は、客観的な条件から取られた標準である。それが客観的に知覚できる事実によって直接に示されるか、客観的な観念として表現されるかを問わない。
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Thinking in general is fed from two sources, firstly from subjective and in the last resort unconscious roots, and secondly from objective data transmitted through sense perceptions. Extraverted thinking is conditioned in a larger measure by these latter factors than by the former. Judgment always presupposes a criterion ; for the extraverted judgment, the valid and determining criterion is the standard taken from objective conditions, no matter whether this be directly represented by an objectively perceptible fact, or expressed in an objective idea
つまり、外向的思考では、判断の基準が、自分の外にある客観的な条件や事実の側に置かれるということです。
用語や定義は、論理の要素の話題と考えることもできます。ソシオニクス研究者のグレンコも、著書『64の肖像』(2019年)で、Tiの思考を「短く、極めて引き締まった言語と定義」と書いています。そうだとすると、主観主義の側が用語を約束として扱い、客観主義の側が用語を決まったものとして扱うのは、TiとTeの基準の置き方と合っている可能性も考えられます。
倫理の要素: Feは一般の標準、Fiは言葉にしにくい自分の側
倫理の側では、向きが逆になります。ユングは、ソシオニクスのFeの元になった外向的感情について、こう書いています。
具体的な対象の質からある程度独立しているように見えるときでさえ、それはなお、何らかの伝統的な、あるいは一般に通用する標準の支配下にある。たとえば私は、ある対象を「美しい」とか「よい」とか呼ばざるをえないと感じることがある。それは、自分の主観的な感情からその対象を「美しい」「よい」と思うからではなく、そう言うのがふさわしく、角が立たないからである。
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Even where it seems to show a certain independence of the quality of the concrete object, it is none the less under the spell of traditional or generally valid standards of some sort may feel constrained, for instance, to use the predicate 'beautiful' or 'good', not because find the object 'beautiful' or 'good' from my own subjective feeling, but because it is fitting and politic so to do ; and fitting it certainly is, inasmuch as a contrary opinion would disturb the general feeling situation. A feeling-judgment such as this is in no way a simulation or a lie it is merely an act of accommodation.
上の引用の冒頭の「それ」は、外向的感情のことです。言い換えると、外向的感情は「美しい」「よい」のような評価の語を、自分の感じではなく一般に通用する標準に合わせて使うということです。「美しい」「よい」も、「もっと美しい」と言えるので、段階形容詞の一種と考えられます。
一方、ソシオニクスのFiの元になった内向的感情について、ユングはこう書いています。
内向的感情は、主として主観的な要因によって決定される。これは、その感情判断が、思考の内向が外向と異なるのとまったく同じ本質的な意味で、外向的感情とは異なるということである。(中略)内向的感情の過程を知性的に提示すること、あるいはそのおおよその(中略)記述を与えることさえ、疑いなく困難である。とはいえ、この種の感情に固有の性格は、いったんそれに気づきさえすれば、そのまま際立って現れる。
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Introverted feeling is determined principally by the subjective factor. This means that the feeling-judgment differs quite as essentially from extraverted feeling as does the introversion of thinking from extraversion.(中略)It is unquestionably difficult to give an intellectual presentation of the introverted feeling process, or even an approximate(中略)description of it, although the peculiar character of this kind of feeling simply stands out as soon as one becomes aware of it at all.
つまり、内向的感情の判断は感じる人自身の側で決まり、その中身を言葉で説明するのは難しいということです。
ここから1つの仮説が成り立ちます。境目を自分の側に持つのは、主観主義の側では論理の語、客観主義の側では倫理の語ではないか、という仮説です。例えば、客観主義の側が「失礼だ」「感じがいい」のような評価の語を使うときです。その境目は本人の感じ方の中にあるのに、言葉ではほとんど示されないことがあり得ます。反対に、主観主義の側は、評価の語を場の標準に合わせて使い、用語の境目のほうを自分たちの約束として言葉にしていると考えることもできます。
ただし、ユングの4つの機能の記述を、ソシオニクスの情報要素へそのまま当てはめてよいかは、別に確かめる必要があります。
07この読み方は、どうすれば確かめられるか
| 比べる組 | 分かること |
|---|---|
| 主観主義/客観主義 | 二分法の差 |
| Ti自我/Fe自我 | 主観主義の中の差 |
| Te自我/Fi自我 | 客観主義の中の差 |
この記事の仮説を確かめるときに、比べる組です。
まず、この記事の読みには、統計の裏付けがありません。心理学者のタラノフは2003年の論文「レイニン特徴の実験的研究」(ソシオニクス新聞 №07-08)で、基本の4つの二分法とレイニン特性11本を、質問紙でまとめて検定しました。そして、6つの実験のどれでも、レイニン特性に心理学的な中身は見つからなかったと報告しています。詳しくは主観主義/客観主義の解説の見分け方の章で紹介しています。
検証グループの報告も、統計ではなく観察の記録です。協力者のタイプは専門家が判定したものです。その判定に話し方の手がかりが使われていれば、言葉の使い方の違いが、判定の段階で入り込んでいる可能性も残ります。また、ケネディの研究は英語の形容詞の意味を扱ったもので、人のタイプとの関係を調べたものではありません。
確かめる方法としては、例えば次のものが考えられます。タイプの分かっている人に、程度を表す語を含む定義を書いてもらい、境目の言い方を数える方法です。
- 境目を数値や条件で言うか
- 「ここでは〜と呼ぶ」のように約束として言うか
- 例で示すか
- 境目を言わずに使うか
数えるときは、用語のような論理の語と、「失礼」のような評価の語を分けます。そのうえで、上の表の組で比べます。主観主義と客観主義のあいだにだけ差が出るなら、口頭ブロックによる説明と合います。同じ側の中で、自我(主導機能と創造機能)の要素によって差が出るなら、要素そのものの違いが関わっている可能性があります。
自我の要素で分けると、次の4組になります。
- Ti自我: ILE・LII・LSI・SLE
- Fe自我: SEI・ESE・EIE・IEI
- Te自我: ILI・LIE・LSE・SLI
- Fi自我: SEE・ESI・EII・IEE
検証グループの仮説(倫理型で主観主義の表れが、論理型で客観主義の表れが強まる)も、同じ組で確かめられます。この記事の仮説が正しければ、評価の語の境目を言わずに使う傾向は、客観主義の中でもFi自我のタイプで目立つという予想になります。
08まとめ
| 見方 | 主観主義 | 客観主義 |
|---|---|---|
| 用語 | 約束で決める | 決まったもの |
| 定義 | 規約的定義 | 記述的定義 |
| 境目 | 条件で言う | 例で示す |
この記事で扱った3つの見方のまとめです。※用語の行は検証グループの報告、定義と境目の行は当サイトの読みです。
主観主義/客観主義の検証研究には、用語を約束として扱うか、決まったものとして扱うかという観察の記録があります。言語学の段階形容詞と定義の種類から見ると、この違いは、語の境目を誰のものとして扱うかの違いとして読める可能性があります。さらに、その持ち主は、論理の語と倫理の語で入れ替わる可能性もあります。
どれも確かめられていない仮説です。それでも、人と話が食い違ったとき、相手がその言葉の境目を話す人どうしで決める約束と見ているのか、言葉の中にもともとあると見ているのかを考えることは、タイプが分からなくてもできます。
引用索引
- [1]アウシュラ「レイニン特性理論」(原題:Теория признаков Рейнина)『ソシオニクス、メントロジー、パーソナリティ心理学』誌 1998年第6号(連載第6部)「第III部に関する覚書」(1998年) 本文へ
- [2]Reinin『ソシオニクス: 類型論・小集団』(原題:Socionics: Typology. Small Groups.、2010)第III部「主観主義者 — 客観主義者」 底本は英語版 本文へ
- [3]サンクトペテルブルクのソシオニクス作業グループ『レイニン特徴の中身: 実地研究の結果』(原題:Наполнение признаков Рейнина: результаты практических исследований、2003) 「陽気 - 深刻(主観主義 - 客観主義)」主観主義の項 公開元 dynamicsocionics.ru(ウェブの保存記録 2014-05-22)。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [4]サンクトペテルブルクのソシオニクス作業グループ『レイニン特徴の中身: 実地研究の結果』(原題:Наполнение признаков Рейнина: результаты практических исследований、2003) 「陽気 - 深刻(主観主義 - 客観主義)」主観主義の項 公開元 dynamicsocionics.ru(ウェブの保存記録 2014-05-22)。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [5]サンクトペテルブルクのソシオニクス作業グループ『レイニン特徴の中身: 実地研究の結果』(原題:Наполнение признаков Рейнина: результаты практических исследований、2003) 「陽気 - 深刻(主観主義 - 客観主義)」客観主義の項 公開元 dynamicsocionics.ru(ウェブの保存記録 2014-05-22)。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [6]サンクトペテルブルクのソシオニクス作業グループ『レイニン特徴の中身: 実地研究の結果』(原題:Наполнение признаков Рейнина: результаты практических исследований、2003) 「陽気 - 深刻(主観主義 - 客観主義)」客観主義の項 公開元 dynamicsocionics.ru(ウェブの保存記録 2014-05-22)。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [7]Christopher Kennedy「Vagueness and grammar: the semantics of relative and absolute gradable adjectives」『Linguistics and Philosophy』誌 第1節(2007年) 30巻1号 1-45頁。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [8]Christopher Kennedy「Vagueness and grammar: the semantics of relative and absolute gradable adjectives」『Linguistics and Philosophy』誌 第1節(2007年) 30巻1号 1-45頁。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [9]Anil Gupta・Stephen Mackereth「Definitions」『Stanford Encyclopedia of Philosophy』誌 第1.3節(2023年) 2008年初出、2023年9月13日改訂。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [10]Anil Gupta・Stephen Mackereth「Definitions」『Stanford Encyclopedia of Philosophy』誌 第1.4節(2023年) 2008年初出、2023年9月13日改訂。当サイト訳 出典リンク 本文へ
- [11]ユング『心理学的類型』(原題:Psychologische Typen、1921)第10章 原著は独語(1921年)。本文は英訳版からの訳出 本文へ
- [12]ユング『心理学的類型』(原題:Psychologische Typen、1921)第10章 原著は独語(1921年)。本文は英訳版からの訳出 本文へ
- [13]ユング『心理学的類型』(原題:Psychologische Typen、1921)第10章 外向的態度「感情」 原著は独語(1921年)。底本はH. G. Baynes英訳(1923年) 本文へ
- [14]ユング『心理学的類型』(原題:Psychologische Typen、1921) 原著は独語(1921年)。底本はH. G. Baynes英訳(1923年) 本文へ

